仏教語
仏教語を知る
日常生活の中でよく耳にする
仏教語をブログ形式にて
ご紹介をしております。
どうぞご覧下さい。
自覚と無自覚
私には八歳と六歳の息子がいます。ある日、祖父母が息子たちをお風呂へ連れて行ってくれました。
露天風呂に入っていると、片腕のないご老人がいたそうです。六歳の息子は「腕がない。腕がない。」と兄に言っていたようです。
大人であれば、そのようなことは口に出してはいけないと内に秘めることができたのかもしれません。しかし息子はまだ六歳。そういった場面に遭遇することもなく育ってきたこともあってか、悪気もなく思ったことをそのまま口に出してしまったのであろうと感じます。
そのことを息子にどのように話そうか数日悩み、ある先生にお尋ねしました。すると先生は、「息子さんの出来事は、自覚というよりエチケットの話だと思いますが、仏教では知っていてやる事と知らないでやる事は、知らないでやる方が罪は深いとされています。理由は、悪いと知っていての行為は手加減するからです。逆に知らないで行う行為は悪いという思いがないだけに徹底してしまうという訳です。無邪気というのがそうですね。」とお話し下さいました。
「無自覚の行為なのだから仕方がない」、「自覚しての行為なら悪い」と思っていた私は考えをひっくり返された気持ちになりました。私の考えは一般的な意味で、先生は仏教での意味なのです。一般的思考と仏教的思考では捉え方が違うことが多いのでしょう。息子には「腕がないおじいさんは、病気で腕がなくなってしまったのかもしれない。もしかしたら生まれた時からないのかもしれない。本当の理由は分からないけれど、あなたの言葉を聞いておじいさんはすごく悲しい気持ちになってしまったかもしれないね。あたたは小さい時から坊主頭だけど、お友達に「ハゲ」と言われたらどういう気持ちになる?こんなこと言ったら相手はどういう気持ちになるかな?悲しい気持ちになるかな?口に出す前にちょっとだけ考えてみようね!」と伝えました。
それからしばらくして、息子が擦り傷いっぱいで公園から帰って来ました。自転車で転んでしまったようです。その日は絆創膏を張り様子をみて、傷口が良くなってきたので絆創膏を外すことにしました。すると息子は「早く治るといいな。前お風呂でいたおじいさんもこうやって怪我をして腕がなくなってしまったのかもしれないね。」と話してきました。
あの時発した言葉でおじいさんを傷つけてしまったかもしれません。しかし、息子がその出来事をきちんと留めいていたこと、こういう理由で腕がなくなってしまったのかもしれないと考えられたことは、親として子の成長を感じられた気持ちです。
子どもから学ぶことはたくさんあります。子どもも六歳親も六歳(親になって六年)なのです。
異種異相(いしゅいそう)
親鸞聖人の教えに出あってから、ずっとひっかかったままの言葉があります。「共に生きる」ということ。少なくとも私は共になど生きられていない。
仏教は智慧というものを光りをもってかたどる。智慧のない在り方は光りの無い在り方。光りがない時にはどうなるかと言いますと、手探りの生活。
手探りの生活は何かと言いますと、自分の手に触れた限りを依り処にする生活です。つまり自分の体験したこと、自分の触れたものだけを絶対的な依り処にして、判断して行くのが手探りの生活でございましょう。自分の体験を物差しとしてものを見て行く。決めつけて行く。そういうことが必ず起こる。
これに対して光明を以て表される智慧は、異種・異相なる存在に心を開かしめる。異種・異相。これは「この人も同じだった」と、そういうことじゃないのです。どこまでも自分とは違ったものとして聞いていくという、その人に聞いていく心を持つということなのでしょう。
つまり、自分の在り方がどこまでもひとつの在り方、異種・異相なるもののなかのひとつなのだということを知ることなのです。
「共に生きるということ(著者:宮城顗)」
ずっとこの言葉を聞いてきたのに…私は昔も今も変わらず、手探りの生活から抜け出せない。
「異なり違う」ということを無理やり私中心のものさしに当てはめて、上下・優劣で広い世界を狭くし続けている私に対しての問いかけとして、大切にしていきたい言葉のひとつです。